自動販売機について

自動販売機の普及が喫茶店の文化を駆逐しようとしている。

そういう仮説を検証してみたい。もしかすると、これがデフレスパイラルの原因のひとつかもしれない。と、さえ感じている。
20年前と比較しても時間の過ごし方、仕事中の休憩のあり方など、喫茶店の使い方というひとつの文化を葬りさろうとしている。

ヨーロッパ(アメリカでも)では自動販売機はほとんど見かけなかった。イタリアなどでは、駅の近くでは朝食を提供する店も結構あったし、目的に応じて様々なタイプの店(バール、ピッツェリア、リストランテなど)がそこかしこに点在していて「自動販売機」や「コンビニ」のつけ入る隙はなかった。香港でもコンビニはあったが、自動販売機はひとつもなかったような気がする。(誰かご存知な方がおられれば、ぜひご指摘をいただきたい。)

もしかして自動販売機がこれほど蔓延しているのは日本だけなのだろうか?

待機電力の固まりともいえる自動販売機は、環境面・景観面から考えてももっと規制していくべきだというのはこれからのひとつの考え方ではないかと思う。
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とはいうものの、「現金製造機」としての自動販売機は、ある意味究極の機械なのかもしれない。魅力的なシステムだ。

しかし、それはあくまでも「ある意味で」という限定的な条件の中でのことであり、電気代がかかりすぎるとか、立地条件によってはまったく採算が合わないといったように、突き詰めるとただ「ムダ」の塊でしかない機械でしかないものである。これをいかに隠蔽しながら営業マンが売り歩いたのか。

自動販売機が不幸にも発生してしまったデフレスパイラルの「きっかけ」となったかもしれないという直感。このことを考えれば考えるほど自動販売機について追求したくなる。さらに、喫茶店という存在がアナクロな存在に堕ちていきつつあるいま、「自動販売機が喫茶店を駆逐した」というテーゼをひとつの研究テーマとせざるを得ないのだという決意はますます固くするばかりである。

紙コップに注がれるタイプの飲料自動販売機設置にも、喫茶店の営業許可が必要であるらしい。単に店舗数をしらべるだけではこの問いについて検証することはできないようだ。

自動販売機の対極に「量り売り」がある。便利さとひきかえに失ったもの。それは対面販売という雇用機会の喪失と子育て中の女性に適した職場の駆逐という恐ろしいスパイラルのきっかけになってしまった。そういう仮説をテーマにしていきたい。
ちなみに、こんなページがあった。自動販売機の損益分岐点は、一日10本売れればよいということのようだ。これは恐ろしい。それなりの立地であれば、それぐらい楽勝だろうから。
http://chubu.yomiuri.co.jp/tokushu/dounaru/dounaru060830_1.htm
http://dancex2.cocolog-nifty.com/weblog/2006/04/post_3e46.html
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2007/04/pdf/025-027.pdf
http://www.lifestyle-forum.org/2000/resume/kadai_jidou.pdf
(つづく)