お薬は「ロラン・バルト」を処方しておきます。

お経を日本語で読みたいということは、そういえばずっと以前から考えていた。「ひろさちや」という人がいて、その人の本を何冊か持っていたことを思い出した。すべて般若心経に関する本だったが、ひとつはこの本だ。

記憶では、奈良国立博物館ミュージアムショップで購入した記憶がある。

何がいいたいかというと、なかなか日本語でお経を解説してもありがたさを伝えることは難しいのではないかという逆の仮説を立ててしまう理由が自分でもよく分からないということだ。

帰無仮説(きむかせつ)ということで、棄却すべき仮説というなら矛盾はないがそうではなく、どちらかというと全く反対の感覚だから始末が悪い。

まあ、個人的な感覚にすぎないから、どうでもよいのではあるが、結構、根本的な問題ではないかという気もしている。

釈尊やキリストなど、この世にはすでにいない人が何を語ったかという構造は普遍的である。空海についての本を探して読み始めている私自身もまさにその構造の只中にいる。

かといって、とあるバーで初めて出会ったひとのことばに感銘を受けるということが仮にあったとしても、「仏教」という大きな概念から私が受ける“ちから”に比べるとはるかに小さいといわざるを得ない。

さらに、映像(とくに商業的に洗練されていない、粗雑な映画作品)が私に与える影響は読書から受ける情報量をはるかに凌駕している。

酔うと、こういうふうにたくさん訳の分からないことを書いてしまう。

きょうのとりあえずの結論は、ロラン・バルトの本を本棚から取ってきて、いまからパラパラとページをめくってみたい気分になったということだ。

やれやれ。